2007年12月16日
北国脇往還 紅葉編
北国脇往還の続きです。
とはいえ、
全行程をご紹介しましたので、
残る2回は番外編のようなものです。
今回は、もはや時季外れになってしまいましたが、
道沿いで見かけた紅葉をご紹介します。

こちらは、
家康が最後の陣を張った関ヶ原古戦場の紅葉。
朝の陽ざしを受けて、
黄色、赤が鮮やかでした。

県境を越えて、
しばらく歩いたところのお寺で見かけた大きな銀杏の木。
向こうには、カエデの木も。
銀杏の葉が黄色い絨毯のように、
地面を覆っていました。

こちらは、
集落の外れを歩いていた見かけた
崖のモミジ。
案外、色鮮やかで目を引きました。

紅葉ではありませんが、
こうした柿の実も、
よく見かけました。

こちらは春照八幡神社。
鳥居の奥に、
色鮮やかな銀杏の木がありました。

集落の一角にあった、
モミジの木。
日陰でわかりにくいですが、
綺麗なグラデーションでした。
12月1日に北国脇往還を歩いたのですが、
まだ十分紅葉が楽しめました。
集落あり、里山あり、国道あり、山道ありの、
変化に富んだ道すがらの紅葉は、
歩く楽しみの一つでした。
今度は、違う季節に歩いてみたいです。
とはいえ、
全行程をご紹介しましたので、
残る2回は番外編のようなものです。
今回は、もはや時季外れになってしまいましたが、
道沿いで見かけた紅葉をご紹介します。
こちらは、
家康が最後の陣を張った関ヶ原古戦場の紅葉。
朝の陽ざしを受けて、
黄色、赤が鮮やかでした。
県境を越えて、
しばらく歩いたところのお寺で見かけた大きな銀杏の木。
向こうには、カエデの木も。
銀杏の葉が黄色い絨毯のように、
地面を覆っていました。
こちらは、
集落の外れを歩いていた見かけた
崖のモミジ。
案外、色鮮やかで目を引きました。
紅葉ではありませんが、
こうした柿の実も、
よく見かけました。
こちらは春照八幡神社。
鳥居の奥に、
色鮮やかな銀杏の木がありました。
集落の一角にあった、
モミジの木。
日陰でわかりにくいですが、
綺麗なグラデーションでした。
12月1日に北国脇往還を歩いたのですが、
まだ十分紅葉が楽しめました。
集落あり、里山あり、国道あり、山道ありの、
変化に富んだ道すがらの紅葉は、
歩く楽しみの一つでした。
今度は、違う季節に歩いてみたいです。
2007年12月15日
北国脇往還 道標編
大変ご無沙汰しております。
今年ももうあと半月あまり。
先日、北国脇往還を歩きました。
早く更新しなければと思いつつ、
遅くなってしまいましたが、
今日から3回にわけて、
その時の様子をご紹介しましょう。
北国脇往還をご存じでしょうか。
いくつかルートがあるようですが、
私が今回歩いたのは、
中山道の関ヶ原宿から、
北国街道の木之本へ至る道です。
中山道と北国街道は、
彦根の鳥居本あたりで交わっているのですが、
北国脇往還は、
中山道を東から来た人が、
北国街道を北に行く際の、
または、その逆で、
北国街道を北から来た人が、
中山道を東に行く際の
いわば「近道」になります。
総延長は約40キロ。
すでに、ほかの同行者の方々がアップされているので
おわかりだと思いますが、
これが、どんな道のりだったか、
ご紹介していきましょう。

始点はJR関ヶ原駅。
天気は曇り。
(駅のあたりは晴れていましたが)
午前8時すぎに到着し、
すぐに出発しました。
関ヶ原といえば、
関ヶ原の戦いで有名ですが、
こちらも、立派な宿場町でした。
その面影が今も残ります。

その関ヶ原の戦いで、
徳川家康が陣を張っていたという古戦場。
関ヶ原にはあちこちに、
こうした場所があるようです。
さらに歩き続けると、
伊吹山ドライブウエイの入口が。
今年6月、
伊吹山登山を計画したものの、
雨で登れず、
結局、ここから車で登りました。

歩き始めて1時間ほどだったころでしょうか。
県境に来ました。
これから滋賀県に入ります。

道沿いには、
ところどころ、
こうした道標があります。
それを見つけながら歩くのが、
街道歩きの楽しみです。

こちらは、
米原市(旧伊吹町)、藤川宿の外れにある木製の道標。

行政が立てたのでしょうか。
こうした看板もところどころで見かけました。

そして、
松の木の下で見つけたのは、
お地蔵様。
かつてあった松尾寺の観音堂茶所跡だそうです。
ここあたりから、
やや軽い筋肉痛を感じましたが、
大丈夫です。

次に到着したのは、
米原市(旧伊吹町)の春照宿。
春照と書いて、
「すいじょう」と読むことを、
初めて知りました。
ここで、石の道標に出会えました。
「右、北国きのもと えちぜん 道」と書いてあります。
天気予報は、
曇り時々雨、降水確率50%でしたが、
このあたりから空には青空が広がりました。
前途洋々に思えたのですが・・・

姉川を越えます。
もちろん、姉川の合戦で有名ですね。
合戦の時には、
あまりの激しい戦いに、
血の川となったそうです。

道中に見かけたお地蔵様。
本当は、ここに道標があるはずなのですが、
残念ながら見つけられませんでした。
それとも、
このお地蔵様の中に混じって、
道標が隠されていたのでしょうか。

こちらにも、
小さな道標。
右江戸道、左山中道と、
かなり大雑把な道しるべです(笑)

長浜市(旧浅井町)に入って
野村の集落にある道標。
江戸時代のものだそうです。

こちらは八島の集落内にある道標。
先の道標に比べて、
新しく、近代になって寄進されたようです。

同じ八島集落内にある道標。
この集落には、
6つも道標があるそうですが、
これが一番古く、
江戸時代のものだそうです。

こちらも八島の集落内にある道標。
「虎姫駅」という文字があることから、
明治17年の北陸本線の開通以降に寄進されたものと
見られています。

道は、長浜市を抜け、
湖北町に入りました。
こちらは、伊部宿の本陣跡。

こちらは小谷山。
浅井長政の居城、
小谷城があったところです。
さすがに、
足が重たく感じ、
疲れてきました。

小谷山のすぐ近く、
郡上宿です。
木製の看板の下には、
かわいらしいカボチャが飾ってありました(笑)

近くには、木製の水車が。
あまり大きくはありませんが、
とても素敵です。

郡上の集落を抜けたあたりでしょうか。
こちらの道標には、
指差しマークがついています(笑)
このころから、
北の空には雲がかかっていました。
そして、日もだいぶ傾いてきました。
急がなければ、
日が暮れてしまう・・・
少し焦りながら歩を進めました。

集落の中に入ると、
ここにも水車が。
こちらは、人の背丈以上の大きなもので、
古い感じです。

かなり大きな道標。
これは新しそうです。
「左 きのもと道」とあります。
この後、
雨が本降りになって来ました。
終点まで、あと5、6キロのところ。
疲れはピークに達していました。
ここで断念するか、
あともう少し、雨の中を歩くか・・・
かなり悩みましたが、
もう二度と歩くことがないかもしれないと思い、
終点を目指すことにしました。
登山用の雨具を来て、
傘をさしながら、
ただ、ひたすら黙って、
終点を目指しました。

最後に見かけた道標。
もう、先を急ぐことで精一杯で、
どこで撮ったのか覚えていません。

そして、
やっと木之本宿にたどり着きました。
脇往還と北国街道の分岐点にある道標です。
時間は午後5時過ぎ。
もうすっかり日が暮れていました。
計9時間かけて、
何とか最後まで歩ききりましたが、
疲労困憊しました。
筋肉痛だけでなく、
左膝の裏の筋が痛く、
歩くのが精一杯でした。
そんな中、
最後まで歩く励みになったのが、
道標でした。
疲れと消耗が激しさを増すほど、
道標に出会うと、
とてもホッとした気持ちになりました。
かつて、街道を旅した人たちの気持ちが、
少しわかったような気がしました。
脇往還の道沿いには、
いろいろと名所旧跡もあるのですが、
まったく立ち寄ることもできず、
残念でした。
1日で歩けない距離ではありませんが、
二日間にわけて、
もう少しゆっくりと見物しながら、
歩く方がいいような気がしました。
今後もう一度歩く機会があるなら、
ぜひ、そうしたいと思います。
今年ももうあと半月あまり。
先日、北国脇往還を歩きました。
早く更新しなければと思いつつ、
遅くなってしまいましたが、
今日から3回にわけて、
その時の様子をご紹介しましょう。
北国脇往還をご存じでしょうか。
いくつかルートがあるようですが、
私が今回歩いたのは、
中山道の関ヶ原宿から、
北国街道の木之本へ至る道です。
中山道と北国街道は、
彦根の鳥居本あたりで交わっているのですが、
北国脇往還は、
中山道を東から来た人が、
北国街道を北に行く際の、
または、その逆で、
北国街道を北から来た人が、
中山道を東に行く際の
いわば「近道」になります。
総延長は約40キロ。
すでに、ほかの同行者の方々がアップされているので
おわかりだと思いますが、
これが、どんな道のりだったか、
ご紹介していきましょう。

始点はJR関ヶ原駅。
天気は曇り。
(駅のあたりは晴れていましたが)
午前8時すぎに到着し、
すぐに出発しました。
関ヶ原といえば、
関ヶ原の戦いで有名ですが、
こちらも、立派な宿場町でした。
その面影が今も残ります。

その関ヶ原の戦いで、
徳川家康が陣を張っていたという古戦場。
関ヶ原にはあちこちに、
こうした場所があるようです。
さらに歩き続けると、
伊吹山ドライブウエイの入口が。
今年6月、
伊吹山登山を計画したものの、
雨で登れず、
結局、ここから車で登りました。
歩き始めて1時間ほどだったころでしょうか。
県境に来ました。
これから滋賀県に入ります。
道沿いには、
ところどころ、
こうした道標があります。
それを見つけながら歩くのが、
街道歩きの楽しみです。
こちらは、
米原市(旧伊吹町)、藤川宿の外れにある木製の道標。
行政が立てたのでしょうか。
こうした看板もところどころで見かけました。
そして、
松の木の下で見つけたのは、
お地蔵様。
かつてあった松尾寺の観音堂茶所跡だそうです。
ここあたりから、
やや軽い筋肉痛を感じましたが、
大丈夫です。
次に到着したのは、
米原市(旧伊吹町)の春照宿。
春照と書いて、
「すいじょう」と読むことを、
初めて知りました。
ここで、石の道標に出会えました。
「右、北国きのもと えちぜん 道」と書いてあります。
天気予報は、
曇り時々雨、降水確率50%でしたが、
このあたりから空には青空が広がりました。
前途洋々に思えたのですが・・・
姉川を越えます。
もちろん、姉川の合戦で有名ですね。
合戦の時には、
あまりの激しい戦いに、
血の川となったそうです。
道中に見かけたお地蔵様。
本当は、ここに道標があるはずなのですが、
残念ながら見つけられませんでした。
それとも、
このお地蔵様の中に混じって、
道標が隠されていたのでしょうか。
こちらにも、
小さな道標。
右江戸道、左山中道と、
かなり大雑把な道しるべです(笑)
長浜市(旧浅井町)に入って
野村の集落にある道標。
江戸時代のものだそうです。
こちらは八島の集落内にある道標。
先の道標に比べて、
新しく、近代になって寄進されたようです。
同じ八島集落内にある道標。
この集落には、
6つも道標があるそうですが、
これが一番古く、
江戸時代のものだそうです。
こちらも八島の集落内にある道標。
「虎姫駅」という文字があることから、
明治17年の北陸本線の開通以降に寄進されたものと
見られています。
道は、長浜市を抜け、
湖北町に入りました。
こちらは、伊部宿の本陣跡。
こちらは小谷山。
浅井長政の居城、
小谷城があったところです。
さすがに、
足が重たく感じ、
疲れてきました。
小谷山のすぐ近く、
郡上宿です。
木製の看板の下には、
かわいらしいカボチャが飾ってありました(笑)
近くには、木製の水車が。
あまり大きくはありませんが、
とても素敵です。
郡上の集落を抜けたあたりでしょうか。
こちらの道標には、
指差しマークがついています(笑)
このころから、
北の空には雲がかかっていました。
そして、日もだいぶ傾いてきました。
急がなければ、
日が暮れてしまう・・・
少し焦りながら歩を進めました。
集落の中に入ると、
ここにも水車が。
こちらは、人の背丈以上の大きなもので、
古い感じです。
かなり大きな道標。
これは新しそうです。
「左 きのもと道」とあります。
この後、
雨が本降りになって来ました。
終点まで、あと5、6キロのところ。
疲れはピークに達していました。
ここで断念するか、
あともう少し、雨の中を歩くか・・・
かなり悩みましたが、
もう二度と歩くことがないかもしれないと思い、
終点を目指すことにしました。
登山用の雨具を来て、
傘をさしながら、
ただ、ひたすら黙って、
終点を目指しました。
最後に見かけた道標。
もう、先を急ぐことで精一杯で、
どこで撮ったのか覚えていません。
そして、
やっと木之本宿にたどり着きました。
脇往還と北国街道の分岐点にある道標です。
時間は午後5時過ぎ。
もうすっかり日が暮れていました。
計9時間かけて、
何とか最後まで歩ききりましたが、
疲労困憊しました。
筋肉痛だけでなく、
左膝の裏の筋が痛く、
歩くのが精一杯でした。
そんな中、
最後まで歩く励みになったのが、
道標でした。
疲れと消耗が激しさを増すほど、
道標に出会うと、
とてもホッとした気持ちになりました。
かつて、街道を旅した人たちの気持ちが、
少しわかったような気がしました。
脇往還の道沿いには、
いろいろと名所旧跡もあるのですが、
まったく立ち寄ることもできず、
残念でした。
1日で歩けない距離ではありませんが、
二日間にわけて、
もう少しゆっくりと見物しながら、
歩く方がいいような気がしました。
今後もう一度歩く機会があるなら、
ぜひ、そうしたいと思います。
2007年09月13日
鵜川四十八体仏
仕事が立て込んでいるのですが、
先日、高島市の鵜川の
四十八体仏を訪れました。

この石仏、
どこかで見覚えが・・・
そう、
以前ご紹介した、
坂本の慈眼堂の境内にあった石仏と同じです。
もともとは、
四十八体がすべてこの場所にあったのですが、
十五体が坂本に移されたそうです。
しかも、そのうち2体は、
なんと盗難にあって、
現在はなくなってしまっているとか・・・

500年ほど昔に造られただけあって、
どの石仏も、角がとれて丸みを帯びています。
しかも、
その表情はどれも微笑んでいるのです。

国道161号から少し山側に入った
林の中に、
ひっそりと石仏たちは佇んでいました。
優しい石仏たちに見守られ、
なんだか、
とても心落ち着くひとときでした。
先日、高島市の鵜川の
四十八体仏を訪れました。
この石仏、
どこかで見覚えが・・・
そう、
以前ご紹介した、
坂本の慈眼堂の境内にあった石仏と同じです。
もともとは、
四十八体がすべてこの場所にあったのですが、
十五体が坂本に移されたそうです。
しかも、そのうち2体は、
なんと盗難にあって、
現在はなくなってしまっているとか・・・
500年ほど昔に造られただけあって、
どの石仏も、角がとれて丸みを帯びています。
しかも、
その表情はどれも微笑んでいるのです。
国道161号から少し山側に入った
林の中に、
ひっそりと石仏たちは佇んでいました。
優しい石仏たちに見守られ、
なんだか、
とても心落ち着くひとときでした。
2007年08月15日
柳ケ瀬トンネル(福井側)
今年の終戦記念日も、
また暑い一日でした。

昨日の言奈地蔵を見物した後、
柳ケ瀬トンネルを通りました。
滋賀と福井の県境をまたぐトンネルです。
もとは、鉄道のトンネルでしたが、
今は、車が通っています。

ここのトンネルは、
2月に余呉を訪れた時、
滋賀県側の入口から撮りました。
今回は、福井県側の入口です。
滋賀県側の入口同様、
土木学会の歴史遺産の碑や、
トンネルが掘られた経緯を記した古い石碑もありました。
今回は、
実際にトンネルもくぐりました。
中で少し曲がっていて、
入口からは出口は見えません。
入ってしばらくして出口の光が見えますが、
とっても小さくて、
いかに長いトンネルかわかると同時に、
これを掘った当時の人たちの苦労がしのばれました。
また暑い一日でした。
昨日の言奈地蔵を見物した後、
柳ケ瀬トンネルを通りました。
滋賀と福井の県境をまたぐトンネルです。
もとは、鉄道のトンネルでしたが、
今は、車が通っています。
ここのトンネルは、
2月に余呉を訪れた時、
滋賀県側の入口から撮りました。
今回は、福井県側の入口です。
滋賀県側の入口同様、
土木学会の歴史遺産の碑や、
トンネルが掘られた経緯を記した古い石碑もありました。
今回は、
実際にトンネルもくぐりました。
中で少し曲がっていて、
入口からは出口は見えません。
入ってしばらくして出口の光が見えますが、
とっても小さくて、
いかに長いトンネルかわかると同時に、
これを掘った当時の人たちの苦労がしのばれました。
2007年08月14日
言奈地蔵
今日は、夕立もあった一日。
それでも猛暑は衰えず、
夕立後はむしろ蒸し暑さが増した感じでした。

もう少しだけ、
余呉探訪を続けます。
昨日ご紹介した木の芽峠。
頂上付近には、
杉木立に囲まれた
なにやら茅葺の建物がありました。

建物には、
「地蔵院」の看板が。
そう。
この峠には
言奈地蔵があるのです。

昔、大金を持った旅人を案内していた馬子が、
その大金目当てに旅人を殺しました。
近くにお地蔵様があったので、
「お前言うな」というと、
地蔵は「お前こそ言うな」と返事をしました。
その言葉に改心した馬子でしたが、
数年後、同じ場所を通ったとき、
たまたま同行になった旅人にそのことを打ち明けたところ、
その旅人こそが、
たかつて馬子に殺された旅人の息子で、
親の仇とばかりに馬子は殺されてしまいました。

お地蔵様というので、
立体的な像を想像していたのですが、
石板に彫られたものでした。
麓の集落からも遠い、
山の上にあるお地蔵様ですが、
誰かがきちんとお供えしているのが、
見受けられ、
地域の人たちに大切にされているのだと感じました。
それでも猛暑は衰えず、
夕立後はむしろ蒸し暑さが増した感じでした。
もう少しだけ、
余呉探訪を続けます。
昨日ご紹介した木の芽峠。
頂上付近には、
杉木立に囲まれた
なにやら茅葺の建物がありました。
建物には、
「地蔵院」の看板が。
そう。
この峠には
言奈地蔵があるのです。
昔、大金を持った旅人を案内していた馬子が、
その大金目当てに旅人を殺しました。
近くにお地蔵様があったので、
「お前言うな」というと、
地蔵は「お前こそ言うな」と返事をしました。
その言葉に改心した馬子でしたが、
数年後、同じ場所を通ったとき、
たまたま同行になった旅人にそのことを打ち明けたところ、
その旅人こそが、
たかつて馬子に殺された旅人の息子で、
親の仇とばかりに馬子は殺されてしまいました。
お地蔵様というので、
立体的な像を想像していたのですが、
石板に彫られたものでした。
麓の集落からも遠い、
山の上にあるお地蔵様ですが、
誰かがきちんとお供えしているのが、
見受けられ、
地域の人たちに大切にされているのだと感じました。
2007年08月13日
木の芽峠
お盆休みという方が多いでしょうか。
それでも、
猛暑は一向におさまる気配はありません。

もう少し、
余呉探訪を続けます。
栃の木峠に立った後、
さらに足を延ばして、
木の芽峠を目指しました。

峠には、
戦国時代初めごろまで、
城郭があったようです。
今は、私有地になっているので、
立ち入り禁止という看板もありました。

木の芽峠へは、
今は、栃の木峠から林道が伸びていますが、
昔はありませんでした。
栃の木峠が、
琵琶湖を東回りで北陸に向かう北国街道の峠であるとするなら、
この木の芽峠は、
琵琶湖を西回りで、
高島から北陸に向かう北陸道の峠です。
正確にいえば、
福井県の峠なので、
滋賀の風景ではないのですが、
かつて北陸の物産が、
この峠を通って、
近江に入ってきた
滋賀ゆかりの峠ですので、
どうぞご勘弁ください(笑)
それでも、
猛暑は一向におさまる気配はありません。
もう少し、
余呉探訪を続けます。
栃の木峠に立った後、
さらに足を延ばして、
木の芽峠を目指しました。
峠には、
戦国時代初めごろまで、
城郭があったようです。
今は、私有地になっているので、
立ち入り禁止という看板もありました。
木の芽峠へは、
今は、栃の木峠から林道が伸びていますが、
昔はありませんでした。
栃の木峠が、
琵琶湖を東回りで北陸に向かう北国街道の峠であるとするなら、
この木の芽峠は、
琵琶湖を西回りで、
高島から北陸に向かう北陸道の峠です。
正確にいえば、
福井県の峠なので、
滋賀の風景ではないのですが、
かつて北陸の物産が、
この峠を通って、
近江に入ってきた
滋賀ゆかりの峠ですので、
どうぞご勘弁ください(笑)
2007年08月12日
栃の木峠
今日も夏空。
引き続き、先日の余呉町探訪を続けましょう。

今回、
余呉を訪れた最大の目的は、
この場所に立つことでした。
ここは、滋賀の最北端、
栃の木峠です。
この斜面に斜めに立っているのが、
峠の名前の由来となった
栃の木だと思います。

栃の木峠は、
旧北国街道にある
福井と滋賀の県境です。
2月に訪れた時には、
雪で閉ざされ、
訪れることができませんでした。
でも、これで、
滋賀の街道沿いの東西南北端を
制覇しました。
西の逢坂峠(東海道)、
南の鈴鹿峠(東海道)、
東の寝物語の里(中山道)、
そして今回、
北の栃の木峠(北国街道)・・・
古くから多くの人たちが行き交った
これら海道沿いの国境に立ち、
万感の思いが胸にこみあげました。
引き続き、先日の余呉町探訪を続けましょう。
今回、
余呉を訪れた最大の目的は、
この場所に立つことでした。
ここは、滋賀の最北端、
栃の木峠です。
この斜面に斜めに立っているのが、
峠の名前の由来となった
栃の木だと思います。
栃の木峠は、
旧北国街道にある
福井と滋賀の県境です。
2月に訪れた時には、
雪で閉ざされ、
訪れることができませんでした。
でも、これで、
滋賀の街道沿いの東西南北端を
制覇しました。
西の逢坂峠(東海道)、
南の鈴鹿峠(東海道)、
東の寝物語の里(中山道)、
そして今回、
北の栃の木峠(北国街道)・・・
古くから多くの人たちが行き交った
これら海道沿いの国境に立ち、
万感の思いが胸にこみあげました。
2007年08月10日
中河内本陣跡
衣掛柳に続いて、
今日も、その後訪れた場所をご紹介しましょう。

余呉町の最北集落、
中河内地区にある本陣跡です。
今は、石碑があるのみです。

この場所は、
実は、今年2月にも訪れました。
その時には、
ここはうず高く積った雪に埋もれ、
石碑はわずかにその頭を見せるのみでした。
その写真も、
すでに、このブログにてアップしてあります。
夏場に訪れて、
こんな石碑だったのかと、
改めてわかると同時に、
今では、限界集落となっているこの場所が、
かつては、本陣まで構えた歴史ある北国街道の宿場町として
栄えていたのだと思うと、
とても複雑な思いでした。
今日も、その後訪れた場所をご紹介しましょう。
余呉町の最北集落、
中河内地区にある本陣跡です。
今は、石碑があるのみです。
この場所は、
実は、今年2月にも訪れました。
その時には、
ここはうず高く積った雪に埋もれ、
石碑はわずかにその頭を見せるのみでした。
その写真も、
すでに、このブログにてアップしてあります。
夏場に訪れて、
こんな石碑だったのかと、
改めてわかると同時に、
今では、限界集落となっているこの場所が、
かつては、本陣まで構えた歴史ある北国街道の宿場町として
栄えていたのだと思うと、
とても複雑な思いでした。
2007年08月09日
衣掛柳
今日も暑い一日。
その中で、
再び、余呉町を訪れました。

訪れたのは、
衣掛柳。
そう、あの天女の羽衣伝説の場所です。

天女の羽衣伝説は、
国内のほかの地域にもあるそうですが、
余呉もその一つです。
この看板には、
菅原道真まで登場しています。

柳というわりに、
見た感じが、
まったく柳のような感じがしませんでした。
柳の中にもいろんな品種があるのでしょうか?

柳の周囲には、
余呉湖のそばまで、
美しい緑の水田が広がっていました。
こんな美しいところなら、
天女が降りてくるのもわかる気がします。
その中で、
再び、余呉町を訪れました。
訪れたのは、
衣掛柳。
そう、あの天女の羽衣伝説の場所です。
天女の羽衣伝説は、
国内のほかの地域にもあるそうですが、
余呉もその一つです。
この看板には、
菅原道真まで登場しています。
柳というわりに、
見た感じが、
まったく柳のような感じがしませんでした。
柳の中にもいろんな品種があるのでしょうか?
柳の周囲には、
余呉湖のそばまで、
美しい緑の水田が広がっていました。
こんな美しいところなら、
天女が降りてくるのもわかる気がします。
2007年06月26日
大津事件
蒸し暑くなってきました。
雨が降らないので、
今日は、一日
歩いてあちこち仕事に出かけていました。

その途中で見かけたのが、
この石碑。
そう。
大津事件の場所です。
「この付近、ロシア皇太子遭難の地」と記されています。

教科書にも登場するこの事件ですが、
これまで、この道は車で通っていたので、
石碑に気づきませんでした。
大津の街角に、
ひっそりと歴史が隠れています。
雨が降らないので、
今日は、一日
歩いてあちこち仕事に出かけていました。
その途中で見かけたのが、
この石碑。
そう。
大津事件の場所です。
「この付近、ロシア皇太子遭難の地」と記されています。
教科書にも登場するこの事件ですが、
これまで、この道は車で通っていたので、
石碑に気づきませんでした。
大津の街角に、
ひっそりと歴史が隠れています。
2007年04月01日
紀貫之の墓
比叡山の山中には、
平安時代の歌人、紀貫之の墓があります。

紀貫之の墓は、
比叡山系の一つ、
裳立山にあります。
ここには、
貫之の髪と爪が埋められているといいます。
石碑は、明治時代になって建てられました。

紀貫之といえば、
土佐日記の著者であり、
古今和歌集の編者の一人です。
また三十六歌仙の一人でもあります。
人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほいける
の和歌は有名ですね。
貫之の墓が滋賀にあるとは知りませんでした。
偶然、お参りすることができて、
とても幸運でした。
平安時代の歌人、紀貫之の墓があります。
紀貫之の墓は、
比叡山系の一つ、
裳立山にあります。
ここには、
貫之の髪と爪が埋められているといいます。
石碑は、明治時代になって建てられました。

紀貫之といえば、
土佐日記の著者であり、
古今和歌集の編者の一人です。
また三十六歌仙の一人でもあります。
人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほいける
の和歌は有名ですね。
貫之の墓が滋賀にあるとは知りませんでした。
偶然、お参りすることができて、
とても幸運でした。
2007年03月30日
草津宿
以前、近くの公園まで行きながら、
結局、どこかわからなかった草津宿を、
ようやく見つけることができました。

こちらは、
草津宿の脇本陣。
現在は、物産品の販売と、
ちょっとした食事処になっていました。

その証拠に、
店の脇には、
立派な石碑もありました。

こちらは、
本陣です。
白壁に瓦屋根、
立派な門構え、
建物も風情もよく残っています。
ただ、
残念ながら時間がなく、
内部は見学できませんでした。
近くの道路のマンホールには、
こんな蓋が。
なかなかおしゃれです。

ほかにも、こんなレトロなポストもありました。

草津宿は、
東海道の宿場の中でも、
もっとも大きかったそうですね。
4月には、宿場祭りもあります。
また、じっくり拝見したいと思います。
結局、どこかわからなかった草津宿を、
ようやく見つけることができました。
こちらは、
草津宿の脇本陣。
現在は、物産品の販売と、
ちょっとした食事処になっていました。
その証拠に、
店の脇には、
立派な石碑もありました。
こちらは、
本陣です。
白壁に瓦屋根、
立派な門構え、
建物も風情もよく残っています。
ただ、
残念ながら時間がなく、
内部は見学できませんでした。
近くの道路のマンホールには、
こんな蓋が。
なかなかおしゃれです。
ほかにも、こんなレトロなポストもありました。
草津宿は、
東海道の宿場の中でも、
もっとも大きかったそうですね。
4月には、宿場祭りもあります。
また、じっくり拝見したいと思います。
2007年03月29日
逢坂峠
先日、東海道の土山宿をご紹介しましたが、
その同じ東海道の京都との境にあるのが、
この逢坂峠です。

国道1号沿いに建つ石碑と灯籠。
車がひっきりなしに行き交い、
東海道の風情は残念ながらあまりありません。
この石碑がなければ、
逢坂峠と気づかないかもしれません。
逢坂峠には、
平安時代、逢坂の関がありました。
歌枕でもあった逢坂の関にまつわる和歌は、
多いですね。
これやこの行くもかへるも別れては知るも知らぬも逢坂の関 蝉丸
夜をこめて鳥の空音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ 清少納言
その同じ東海道の京都との境にあるのが、
この逢坂峠です。
国道1号沿いに建つ石碑と灯籠。
車がひっきりなしに行き交い、
東海道の風情は残念ながらあまりありません。
この石碑がなければ、
逢坂峠と気づかないかもしれません。
逢坂峠には、
平安時代、逢坂の関がありました。
歌枕でもあった逢坂の関にまつわる和歌は、
多いですね。
これやこの行くもかへるも別れては知るも知らぬも逢坂の関 蝉丸
夜をこめて鳥の空音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ 清少納言
2007年03月26日
海道松
土山宿の外れに来ると、
松並木がありました。

宿場町には、
必ず松並木があります。
宿場町のシンボルと言えるかもしれません。
土山宿を訪ねた今回の旅も、
ひとまず終了。
短い時間でしたが、
本当に海道風情を満喫しました。
また、ぜひ訪れたいと
強く思いました。
松並木がありました。
宿場町には、
必ず松並木があります。
宿場町のシンボルと言えるかもしれません。
土山宿を訪ねた今回の旅も、
ひとまず終了。
短い時間でしたが、
本当に海道風情を満喫しました。
また、ぜひ訪れたいと
強く思いました。
2007年03月25日
本陣跡
宿場町に必ずあるのが、
本陣です。

本陣とは、
参勤交代の大名たちが泊まった宿です。

建物がとても綺麗に残っていて、
とても立派です。
大きな屋敷だったことが十分うかがえます。

さらに歩くと、
別のところに、
もう一つ本陣跡の石碑がありました。

一つの本陣では収まりきれないほど、
多くの大名が訪れていたことがうかがえます。

ほかにも、問屋宅跡もありました。
この宿場を取り仕切る宿役人がいたところのようです。

本当に、海道風情がよく残る、
とても素晴らしい宿場町でした。
県内のいろんな宿場を訪ねてきましたが、
その中でも有数だったと思います。
これからも、
ぜひ大切にしてほしいと思います。
本陣です。
本陣とは、
参勤交代の大名たちが泊まった宿です。
建物がとても綺麗に残っていて、
とても立派です。
大きな屋敷だったことが十分うかがえます。
さらに歩くと、
別のところに、
もう一つ本陣跡の石碑がありました。
一つの本陣では収まりきれないほど、
多くの大名が訪れていたことがうかがえます。
ほかにも、問屋宅跡もありました。
この宿場を取り仕切る宿役人がいたところのようです。
本当に、海道風情がよく残る、
とても素晴らしい宿場町でした。
県内のいろんな宿場を訪ねてきましたが、
その中でも有数だったと思います。
これからも、
ぜひ大切にしてほしいと思います。
2007年03月23日
伝馬館
宿場町の土山には、
伝馬館がありました。

昔は、公用の書状や荷物を、出発地から目的地まで同じ人や馬が運ぶのではなく、
宿場ごとに人馬を交替して運んでいました。
それを「伝馬制」といいます。
伝馬制は徳川家康によって本格的に整備されたそうです。
残念ながら、
時間がなくて中には入れませんでしたが、
土山宿の様子を、
復元展示してあるようです。
次回訪ねた時には、
ぜひ中に入ってみたいと思います。
伝馬館がありました。
昔は、公用の書状や荷物を、出発地から目的地まで同じ人や馬が運ぶのではなく、
宿場ごとに人馬を交替して運んでいました。
それを「伝馬制」といいます。
伝馬制は徳川家康によって本格的に整備されたそうです。
残念ながら、
時間がなくて中には入れませんでしたが、
土山宿の様子を、
復元展示してあるようです。
次回訪ねた時には、
ぜひ中に入ってみたいと思います。
2007年03月22日
土山宿
土山といえば、
やはり、東海道の宿場町だったことを、
忘れてはいけません。

街道沿いの家々には、
こうした看板がかかっていました。
昔、この場所に
何があったかがわかります。

こちらは、
櫛屋さんだったようです。
この地域では、
「お六櫛」というのが地元の産品だったのでしょうか。

土山宿は、
かつてはかなり大きな宿場町だったようです。
全長2・5キロにわたって、
旅籠や店が並んでいたそうです。
道沿いの民家にかけられた看板を眺めて歩くだけで、
自分も江戸時代の旅人になったようで、
とても楽しい気分になりました。
やはり、東海道の宿場町だったことを、
忘れてはいけません。
街道沿いの家々には、
こうした看板がかかっていました。
昔、この場所に
何があったかがわかります。
こちらは、
櫛屋さんだったようです。
この地域では、
「お六櫛」というのが地元の産品だったのでしょうか。
土山宿は、
かつてはかなり大きな宿場町だったようです。
全長2・5キロにわたって、
旅籠や店が並んでいたそうです。
道沿いの民家にかけられた看板を眺めて歩くだけで、
自分も江戸時代の旅人になったようで、
とても楽しい気分になりました。
2007年03月18日
鈴鹿峠
今日は、
寒い真冬のような一日。
春分も近いというのに、
朝から小雪も舞っていました。
そんな中、
土山を訪れました。

まず、立ち寄ったのは、
旧東海道の鈴鹿峠です。
ここには、
大きくて立派な灯籠がありました。

看板によると、
江戸時代、金毘羅参りの人たちが、
道中の安全を祈願して建てたものとか。
重さは、高さ約5メートル50センチ、
重さ37トンの自然石というから、
驚きです。

この灯籠は、
国道1号を見下ろす丘の上にありました。
ここから南は、
三重県です。
ここはかつて、
滋賀の南の玄関口であり、
多くの旅人が、
この峠を越えて、
滋賀に入ってきたのですね。
寒い真冬のような一日。
春分も近いというのに、
朝から小雪も舞っていました。
そんな中、
土山を訪れました。
まず、立ち寄ったのは、
旧東海道の鈴鹿峠です。
ここには、
大きくて立派な灯籠がありました。
看板によると、
江戸時代、金毘羅参りの人たちが、
道中の安全を祈願して建てたものとか。
重さは、高さ約5メートル50センチ、
重さ37トンの自然石というから、
驚きです。
この灯籠は、
国道1号を見下ろす丘の上にありました。
ここから南は、
三重県です。
ここはかつて、
滋賀の南の玄関口であり、
多くの旅人が、
この峠を越えて、
滋賀に入ってきたのですね。
2007年02月27日
中之郷
北国街道も終わりに近づきました。
最後に立ち寄ったのは、中之郷です。

国道沿いで見かけたのは、
この不思議なコンクリートの構造物。
何だと思いますか?
実はこれ、駅のプラットホームの跡です。

柳ケ瀬トンネルの時にも書きましたが、
北国街道にはかつて、
鉄道が敷かれていました。
ここも、今は国道のバス停になっていますが、
かつては駅だったのです。

近くには、古い駅看板が、
木に立てかけてありました。

鉄道跡が、今も国道として使われているところは、
全国でも数少ないのではないでしょうか。
北国街道が、いかに古くから重要な道であったかを
うかがい知ることのできる場所だと思います。
最後に立ち寄ったのは、中之郷です。
国道沿いで見かけたのは、
この不思議なコンクリートの構造物。
何だと思いますか?
実はこれ、駅のプラットホームの跡です。
柳ケ瀬トンネルの時にも書きましたが、
北国街道にはかつて、
鉄道が敷かれていました。
ここも、今は国道のバス停になっていますが、
かつては駅だったのです。
近くには、古い駅看板が、
木に立てかけてありました。
鉄道跡が、今も国道として使われているところは、
全国でも数少ないのではないでしょうか。
北国街道が、いかに古くから重要な道であったかを
うかがい知ることのできる場所だと思います。
2007年02月26日
柳ケ瀬関所跡
もう少し、北国街道を続けましょう。

県内でも有数の豪雪地帯として知られる柳ケ瀬。
ここには昔、関所があったようです。
残念ながら、今は石碑を残すのみですが、
それだけ行きかう人たちが多かった証拠でしょう。
訪れた時には、
積雪は十数センチほど。
今年は豪雪地帯も、
雪が少なかったようです。
県内でも有数の豪雪地帯として知られる柳ケ瀬。
ここには昔、関所があったようです。
残念ながら、今は石碑を残すのみですが、
それだけ行きかう人たちが多かった証拠でしょう。
訪れた時には、
積雪は十数センチほど。
今年は豪雪地帯も、
雪が少なかったようです。

